可もなく不可もなく

果てしなくネガティブならしい(仮)ですが前向きです。高卒、進路未定者の生活模様。

12月6日 寒さにくるまって

12月になってから6日目。忙しい期間が終わり穏やかに日々を過ごしている。

 


今月の1日は恋人の誕生日だった。ささやかに祝い、いつもと変わらない一日を過ごした。誕生日はおめでとうの数だけ自分が認知されていることに私は驚くほうで、恋人も色んな人に祝われて認知されていることが、すごいと思った。Twitterで誕生日といえばおめでとうとリプライがくるこの世の中に生まれなければ、誕生日でも殆ど自分のことなんて認知されないと思う自分は、繋がりの中で自分が認知しているひとには、おめでとうと言いたい。

 


2日、家で餃子パーティ。10時に目覚ましをかけたのに寝坊した。ひきこもりたい気持ちに寄り添うように寝過ごした感じだった。また目が覚めたのはお昼くらい、気づいた時にはパンをかじっていた。目覚めはばっちり、材料がないので、近くのスーパーで餃子パーティに必要なものを買い揃え、夜にそなえた。餃子パーティは、みんなで手作り餃子を作って焼いたあとは、餃子を食べながら人間の話をした。音楽の話もしたが、音楽が好きだという話はしなかった。まっすぐに立てない人間は、最も、まっすぐ立てる人間よりも自分の軸を得て自分なりに立つことのできる人間ではないかと思う。最後は、わたしが推しの話をして、ギャルマインドで最強になりたいと言うところでこの日の会は終了した。

 


3日はずっと考えていた。目標があってもなくてもわたしはわたしらしい行動をとってその中で自分に必要だと思う物事を選択して生きていくんだろう。牡蠣を食べている人のそばで茶をすすりながら、立て掛けてあるギターを持たないわたしは、今はこれでいいんだと自分に言い聞かせながら、モヤモヤしていた。音楽って自分には必要なものなんだろうか。ひとりで一日中カラオケに篭って弾きたいだけ弾いてみる日を作りたいな。

 


4日、起きてから動画編集や事務的な作業をずっとしていた。この日は雨が降っていたが、夕方頃に、外に出たい気持ちを抑えられず、近くの書店に欲しい本を探しにいった。この日は本との出会いはなかった。この書店は地下通路で百均と繋がっているので、必要なものをそこで買うだけにした。

 


帰りはけやき通りのイルミネーションを見ながら歩いて、三吉屋であっさり中華そばを食べて帰った。(ひとりで歩くときの12月の空やイルミネーションは怖いから、ひとりの時はキラキラした場所を避けて歩きたい、反面、気心のしれたひとと歩くのは悪くないかもしれない)

 


5日、友達にあった後に、ひとりで頼まれたものを買いにいった。休日の街は歩き心地が悪いからすぐ家に帰りたくなった。

 


きょうの予定は心療内科だった。世の中が師走で忙しいと言うのにわたしは、昼くらいに目を覚まして、目が覚めたと思ったらパンを焼いて食べる、洗濯機をまわす。洗濯物を干したら、動画編集をして、時間が余れば、本を読む。(何も出来ずに寝ているよりはいいよ。)心療内科では、今はだいぶ落ち着いていて良いですと言った。その後は、市ノ瀬ちゃん達の展示会に行って絵を買った。自分が絵をかけるとしたら路地裏とひたすら細かい模様を描き続けていたい、人物画をかけるひとの頭や手の動き尊敬している。寒さにくるまってまた本を読もう。

Raining

 

11月12日(金)

 

年内最後のサポステ、担当の精神保健福祉士さんと今年の残りの目標と計画をたてた、訪問看護さんと連絡をとってもらうお願いをした。(その時に、わたしの状態の対応として、この状態だったら少し休ませる、この状態だったらすぐ病院だとかが細かく支持されていることを知って、ちょっとびっくりした。)

 

帰ってからは、CoccoのRainingを歌った。

 

二番の歌詞「髪がなくて腕を切ってみた、切れるだけ切った、温かさを感じた血にまみれた腕で踊っていたんだ」(腕を切って血が皮膚に張り付くように流れるときの温かさを思い出して泣きたくなる。)

 

サビの部分「私は無力で~教室で誰かが笑ってた、それはとても晴れた日で」(学生時代の帰り道の匂いが思い出される、自分がみんなに笑われてるんじゃないかって怖くなる感じとか、外が晴れて周りはザワついてるのに、自分だけ教室の端っこで鬱々とした気持ちでいる感じとか)

 

そのあとは、さよならすべてのエヴァンゲリオンという、庵野秀明さんのドキュメンタリー前編を見た。庵野さんという人は晩年少年、大人になりきれなかった人と最初のところで、周りの人が言っているが、みていて本当にそうなんだなと思った。

 

(彼の生態:中学時代は宇宙戦艦ヤマトのセリフと音楽を覚えるくらいには好き。好き嫌いが激しい偏食家、酒はかなり飲む、電柱が好き。 主観:アニメーションはエゴの塊、肥大化したエゴに対するアンチテーゼ。ドキュメンタリーを受けた理由:謎に包まれすぎていると今の時代は興味を持たれない。)

 

 

11月13日(土)

 

希死念慮と不安がふつふつ煮えたぎっている気持ち、夢にkouさんが出てきて、お前はほんとにめんどくさい人間だと言われてたので目が覚めた。(その前に一度、目がさめて、馴染みのjkにご飯を渡した。) 次に起きたら、Twitterのタイムライン、まいやんがニューボンに行くと言うようなツイートをしていたので、行きつけの古本屋に行ってから、ニューボンに行った。まいやんに声をかけたら手を握ってくれた。ちょっとそれで元気がでた。kouさんや岡本さんともお喋りをした。今日はそれだけで◎とした。

 

 

主観1.何かを何かに役立てようとかいうのもおこがましい、しんどい、何かをしてまで何かをしようと思わない、それは、堕落とはまた違うと思う。

 

 

主観2.みんな設定や仮説に基づいて生きている、その中で、じぶんの信念や本心に基づいてどこまで生きているのか、じぶんの心とそぐわないことは、寧ろ、安心と同義で安らぎなどと同等の心持ちではないのか。

 

 

主観3.たぶん休んでない、ずっとちゃんと生きているから休んでない、休むという表現自体が休むという状態を急かしているような気がしてしんどい。なので、休むという状態を疑っている状態が多い。

 

 

主観4.なんで毎日泣いているのか、嬉しいからさびしいから、楽しいから、ぜんぶの感情や状態がこころから、こぼれ落ちて泣いている。

 

 

主観5.友人や恋人や知り合いがいても自分は全く変わらないので、わたしはどこまでもわたしでしかないことに希望をもてばいい。

 

 

事実6.すべての貯金をおろして貯金額をゼロにしてしまいたい。数字がいちばん辛い。

 

 

11月14日(日)

 

ゆきんこの誕生日

21歳おめでとう、大好きだよ

良い一年になりますように

 

 

 

 

 

季秋

11月10日(水)

 

ライブに出る予定だった。友達とその前に会う予定だった。やりたい事がたくさんあった。頑張りたかった。頑張りたかったけど、鏡を覗くともう誰にも見せられないようなわたししかいなくってダメだった。

 

寝る前の吐き気と同じまんま、iPhoneのポップアップには仕事の連絡だけがきていて、死にたくなった。出るはずだったライブのこと、週末いきたかった推しのイベント、いまは希死念慮でいっぱいの頭。ぜんぶため息くつく感じで辞めればよかったのに。強まる吐き気。パソコンを持ってトイレに行く。

 

時々くる吐き気と格闘しながら、仕事の資料に目を通す自分が何をしているのか分からなくなるくらいぼんやりしていた。自分の存在が不確かになっていくのが怖かった。

 

その一時間後には、病院にいた。点滴の袋の液が減る事に何かがすり減るような気がした。頭が重かった。無意識に自分を自分で叩いていた。にこにこ顔の先生の顔が哀しそうな顔になったとき、生きていて申し訳ないって思った。

 

昼ごはんの時間になる、診察は夕方だという、だからか、通院を手伝ってくれる先輩や看護師さんが、気晴らしに買い物行ってくればいいと言ってくれて、ふらふら泣きながら、タワレコRYUTistを拝みに行った。拝みにいって嬉しさと反して、希死念慮に押しつぶされそうになる自分がいて救いがなかった。きょうは希望が見いだせない。

 

Twitterのタイムラインは今日のライブに出る友人たちが、写真をあげたりして、キラキラ、トイレに行くついでにまた鏡をみる、ダメだと思う、どうしたら大丈夫になれるのか分からなくて怖くなった。自分のすごい狭い範囲で絶望してる。そんなことでって思われるかもしれないのが怖い。そんなことでクヨクヨしてる自分がどういう顔で、友達に連絡したらいいのか分からないから、連絡はどんどん後になる。

 

検査結果、血液検査は良くないままで、働けないですねって、無理に希望はもとうとしなくていいから、ゆっくり治そうねって、言われた。

 

その後、夜は大切な人と一緒に眠りについた。くっついた時に聞こえる、鼓動と息と体温が、ぜんぶを許してくれる気がして心地よかった。

 

11月11日(木)

 

ポッキーの日らしいが、ポッキーは一口も食べなかった。代わりにクッキーを食べた。特に何かしたりはしない日だった。ダラダラしていた。とにかく生きるエネルギーがないから頑張らないをした。

 

夜は恋人とコンビニで買い物をしてから、式日をみた。赤い靴、赤い服、赤い傘、奇抜なメイクをした彼女と、カントク(岩井俊二が話したりしている姿めずらしい気がしたのと、映画監督が映画監督役というのが面白かった)の日々の様子が流れているのをぼーっとみてたら二時間が終わっていた。彼女が、明日はわたしの誕生日なのと毎日、カントクにいうのが不気味だと思ったけど、気持ちが分からなくはなかった。彼女(少女)の鬱々とした情景を見て、今日は何だか心地が良かったりした。感想という感想は、最後にCoccoの曲が流れてきたのが驚いた印象、2000年に少しだけ時間が戻った。この余韻で見たい映画がいくつかできた。

 

 

欠落、滅、滅(寝起きの駄文)

Twitter、10月5日に、12月からお休みしますって言った、その、数日前に、心が折れた、ずっとずっと、折れている、ずっとずっと辛い、くそ、辛いって言ってる奴もそうじゃない奴も、悲しみに暮れて、自分も悲しみに暮れて、そこタッチしないでって自分の境界線から、自分がはみ出て気持ちが悪い。お願いだから、どうか、多くのひと触れないで、触らないで、話しかけないで、どうか、崩さないでと思う。

 

そういえば誕生日20日、わたし、21になるらしい。もう、11月だよ、ああ、死にてえ、誕生日いつも死にたい。今年は大丈夫かなって思いたい、大丈夫になりてえ、11月になってしまったところから、こんな調子で生きていける気がしない。

 

わたしは出生に関して否定的だ。その、否定している出生という過程に置いて、自分が形成されて、生まれたというところから、気持ちが悪い。手に負えない、切り刻みたくなる、全て、思い出なんていらない、父の顔も見たくない、母の顔なんて一生知らなければいい。ましてや、代わり変わる男なんて、死ね。軽蔑しているずっと、それも、また、それで、しんどい。子どもはおもちゃじゃねえんだ、くそだ。なんだけど、みんなそうやって産まれてきた以上は、命まっとうしなきゃ。

 

課題、他者に求めるな、自分に求めろ、怖いっていうな、受け入れろ、性別のこと、性別的な機能のこと、いっぱいいっぱい悩んで、それでも現実、拍車をかけるように、迫ってくる、恐怖感と、痛みと気持ち悪さ、ごめんなさいって、何度言ったか分からない。お巡りさんだって、先生だって気持ちが悪い。大丈夫ですかって言われるたび、思い出す、なんか、交わるときグラってする感覚、世界が、グラってする感覚。私は、怖い、好きな人でも、グラってすんのかな、世界がグラってすんのかな、とか。あの感覚が鮮明に映し出されたの止めたい、わたしが自分で止めたい、自分で、傷つけるのを、抉るのを、嘲笑うのを、汚いって殴るのを。優しく優しくなりたい。

 

思考の余地なんてないくらいに、もっと、自分に優しくなりたい、認めてあげたい、ありのまんま、まるっと、性別ごと、自分ごと、包みたいのは自分自身。ずっと思考している、生物的な部分、自分がまじまじと思考しまくってんのも気持ち悪いから、思考しなくて自然とういうところに行きたい。

 

自分が不完全なもののまんま、完成されないお人形みたいだから、服飾の部分で、魔法をかけて、手足、髪の毛、その他、ぜんぶ、彩って。としても、しょうがない、美意識においては全部正しいことだけど。(綺麗になることは純粋に嬉しいし、可愛いとかっこいいになるのは、自分が喜ぶから、エンジョイしてる)

 

旧友などに変わったと言われる、あたし、緻密さは相変わらずで、くそ、つまんない、もっともっともっともっと殴って壊したい、自分の嫌いな部分、計画的なところ、壊したい、保守的なところ壊したい、怖いっていうこと大丈夫だよって壊したい、壊す、壊すんだ。

 

そんな朝はひとりで生きていくことが、他者と並行して生きていることと同義なんだっておもいながら、ワイシャツの襟をきつく絞めた。

 

 

言いたいことなんてあってもなくても言え、全ては、そこからはじまる

10月に切り替わったことさえ、気づかないまま、9月が終わったことさえ気づかないまま、わたしは、いま、静寂の中にいる。そういえば、派遣の仕事を辞めてから一年になる。(ということは、一年前のこの時期に派遣の仕事をやめたということ) 時期的なのもあるのか、今年は今年で、余裕がなく、予定をこなすのも作業的になっているところがあり、全てに疑問を持ちながら、エネルギーをその回答に回すことに集中するように行動している。それはいいことなのだろうか、そう言い始めたらきりがない。

 

最近、ライブに頻繁に出ているせいか、いろんな人から活動頑張ってますねとか、言われるんだけどわたしは、別に自分のしていることが活動なんて思っていない。それが、なにかに繋がるとも思っていない。そう思ってそんなことしていない。すべての事象は自分が主体で能動的にしたいから、流されてなにかしたくない、それを、あわよくばなんて思ってみたくない。そうすることは、不誠実だと思うから、だから、わたしは、半端な気持ちで活動がんばってるねなんて言われたくない。

 

そういう暇があるのなら、自分に頑張ってるねっていって、自分自身を労ってあげてほしい。

 

わたしにがんばってるねって言って来る人たちはみんな、わたし以上にがんばってると思うから、自分をもっと労わってあげてほしい。いつもそう思っている。励ます側きく側というのはこちらが想像する以上に、がんばっている人が多いと思う。

 

私に声をかけてくれる人はなにか頑張っていて戦ってる感じがするから、こちらも頑張ってるね、おつかれちゃんだねって言ってお互いがお互いを労うということがしたい。未来に繋げるものといえば明日につながる活力のこと。それ以外は何も要らない。(また、明日なんてないかもしれないのだから、活力なんてものも必要ないのかもしれない)

 

 

ここ二年でいちばんショックな出来事があり

返信とTwitterともにログアウトぎみで

必要なものだけ何とかかえしている

(返し切れないものは代行してもらっている)

どう受け止めていいのだろうか

身内や親という概念など

家族関係で自分に影響がある事

ぜんぶ辛くてぜんぶ気持ちわるい

死んでしまいたい

受け止めきれない

 

 

11月27日、昨年出来なかった自分の生誕ライブを友だちの協力や助言がありして貰えそうなので、それまでは、今決っているものはやり通したいと思っていて、それを糧に、わたしはわたしをやっている、だから、12月からの予定は入れていないし決める気もない、もう、夏くらいからわたしはギターを弾きながら歌うことができる感じではなく、現在、詩を淡々と読むということだけをすると、思っている、キャラ設定はすべての解放だから、それはそれでいい。内心は原点回帰してるんだし、これはこれでいいと思っている。

 

 

抱きしめる、抱きしめられる、それだけでいい

あとのことも考えなくていい

そういう幸せを噛み締められる瞬間が

じぶんにもある それだけで幸せだ

他のことだって考えなくていい

わたしはすきだ あなたがすきだ

にんげん理窟がすべてじゃあ苦しいから

時々肌と肌の感触で会話してみる

 

 

あなたがすきだ すきだ すきだよって

たくさんいいたい すきだ

 

 

きれいだとされているものが

きれいだとおもえなくなること

じぶんのからださえふじゆうになる

どこにもいけないかなしみは

ながれないからいっしょにただよう

 

 

しにたいときはおもいだして

なまえをよんではないてしまう

 

 

ないてしまうのだって

かなしいからとは限らないよね

 

 

言いたいことなんてあってもなくても言え

すべてはそこからうまれる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8/31 雑記

8月最終日

 


微睡みの中で手を伸ばして届かない影に涙を流して起きた。午前3時、いつの間にわたしは寝てしまったのだろうか。ジリジリと迫る焦燥感には覚えがある。こころがこれからの予定に追いついていない。つかの間の休息の中での優しさが残っていることだけが救いだ。思い出して何度でも優しい気持ちに嬉しい気持ちになる、会いたいなと思う。

 


 


全員に優しさを持つこと、余裕を持って接するという事は早く諦めたほうがいいのに、どうして、誰にでも必死になろうとするんだろうか。そもそもだ、気が向かない相手との会話は避けよう、期待させて突き落とすのが一番よくない。大衆に向けて配信できて個人に電話ができないのは、既に向き合っている個人以外と個々に会話をすることから逃げたいからだ。

 


飛び入り参加もされたくない。

しれっと実の姉が来たので、尚更そう思う。

 


そのせいなのか、さっき、行きつけの古本屋が

空いていたのでそこで息継ぎをした。

 


 


8月31日

 


朝から馴染みのフォロワーと電話で少し話して、心を穏やかにしてから、洗濯と掃除をした。そこから、ハローワークに行った。仕事もした。感傷に浸る時間も多くあった。

 


今日の気持ちは、ライブの日じゃないのに、葬式のような卒業式のような気持ちで、これは、きっと、まといちゃんがまといちゃんという人格から、居場所から個人に還る日だからなのかもしれないんだけど、8月31日は毎年、感慨深い。少しだけ死にたさがある、同時に、強く生きたいという気持ちがある。

 


夏の終わりへの憧憬は、今年もやはり2015年の故郷の海と自分自身、それに付随する人達と浜の香り、血の滲んだ洋服とアザだらけの体、痛い、痛いな、ずっと痛い、温かさがそこにあるのなら、夕日をうつしたいまの自分の瞳なんだろう。

 


祖母や祖父のことをおもいだす、遠くで父の声がする、顔は見えない、いつもそうだった、約束をしても守られることは殆どなかった、忙しいとの一点張り、父も忙しいとすぐに余裕が無くなるような人だったから、大丈夫だよって言っていた、寂しかった、帰りを待って気づいたら寝ていて、朝で、おはようといえば、仕事に出かけたと言われる、それが仕事の予定でないと気づいていても頑張ってねと言った、精一杯の強がりだった、寂しかった、そんなことを思い出せば、いつも、祖父がごめんねといって手を握ってくれていたことを思い出す。母親替わりだったあの人は、少しでも、わたしを寂しくさせないようにしてくれていた。お母さんって呼びたかった。最後まで、お母さんって呼べない自分のことをわがままだと不幸者だと思っていた。

 


故郷のことを思い出せばそういうことばかり思い出す。

 


 


疎遠になってきている男や女からかかってくる連絡というのは、前の関係性にもよるけれど、一度近い関係にあったんだから、今だってわたしのこと見てよみたいなそういう態度で来られるから、困る。私にも非はあるとは思うけれど、いつまでも、過去に置き去りにされてはいない。更新されている感情に過去の上書きをされたくない。また、仕事の繋がりしかないのに、時々、下ネタを定期的に送ってくる人なんなんだ、気持ち悪い、出来たら必要な連絡だけにして欲しい、それ以上の関係や感情を持ち込まれるのは嫌いだ。嫌いだと言っているのに、その言葉でさえ、照れだとか言われるのはもっと困る。上司に言ったら言いがかりと言われるめんどいな。

 


 


不安を抱いている事柄に対してのストレスがすごい。(知らない土地に行くこと、知らない人と仕事を遂行することなど) 追い込まれてくると、ごめんなさいという気持ちになってくる。友達からの連絡に出れないことが申し訳ないと思う。気を使わせているのがよく分かるから連絡をするのが億劫になる。

 


朝起きると辛い気持ちが込み上げてきて涙が止まらない。今週と来週を耐えれば仕事が一段落するから、そしたら、ゆっくり休めばいい。上手くなにかを誰かを救いといして憩いとしてということも、上手くできないから、つくづく人間に向いていないと思う、ただ、辛いよということがいつも出来ない。

 


こんな感じなので九月はライブに出る予定も見に行く予定もない。一つだけ予約しているライブがあるけれど、強制はしていない。

 


しんどい時にひとりでいるのは辛いけど、特別なにか声をかけて欲しいということがないから、どんどんひとりになっていく。ひとりぼっちの世界で寂しいと思う時間が自分の心の温度と同じで心地良い時もあるんだ、と言い聞かせているだけなんだろうか。そういう自分はあまり好きではないからこれ以上自分で自分に踏み込んで、しんどくなるのはやめよう。一回寝て、起きて考える。淡々と必要なことだけをしよう。

 

 

 

 

フォロワーさんが個々にリプやDMで相手なりの言葉を素朴な言葉を送ってくれるのは不思議と嫌ではない、相手の気遣いと優しさが見えるから、素直に受け取ることができる気がする。

 

 

 

自分が美しいと思う世界だけ切り取って

眠りにつこう、おやすみなさい。

 

 

秋が恋しい、秋は夏より好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

はじめてのときのように。

自分の輪郭や名前がわかってきた、思い出してきた、とてもいい、そうか、そうか、これだって感じ、なんで忘れてたんだろう、大事なもののはずなのにな、こういうこともあったのかも知れないはずなんだけどな、とにかく、純粋に暴力にひれ伏せない、喜びが感動があること、素晴らしいな。暴力と恐怖と不安の中で安心していたのは違うんだ。やめようとやめても切り離し方がわからなくて、なあなあになってたのは、きっと、忘れていただけだ。

 

うまれたまんま、はじめましてでいいんだ、無理しなくていいんだ、わたしはわたしでいいんだ、好きなようにいていいんだ、悪くないかもしれない、今日が最後でも明日が最後でも私が私であること、ふとした時に思い浮かぶ人やものがあれば、生きていけるじゃんか、うわあ、ずっと底なしひとりで一年くらいそっぽ向いてた気がする、そう、抱きしめるとは、名前を呼ぶとは、呼ばれるとは、自分は実態が伴った生命だという事実は、ひとりではわからないな。

 

何度も何度も殴って殴られてどうでもいいようにしてると、じぶんの実態が存在が分からなくなってきて、確かめようって必死になっても転けちゃって。

 

簡単なことじゃないか、シンプルなことじゃないか、辛いこと怖いこと苦しいをなぞってたらずっとひとりなんだ、

 

簡単なこと、シンプルにシンプルに、いま大事なものを大事にしたらいい。それだけだ、今、思い浮かぶ夜空がとても綺麗だ。

 

わたしは、自分に名前がちゃんとあることを久しぶりに認知して、じぶんの輪郭を、存在をちゃんと認識できていて、とても嬉しい、形がわかってきた、スマホを投げ捨てて外に出よう、始発にのって高校の頃の友人に会いに行こう、きっと今日もいい日なんだろう、わたしはわたしなんだろう、自分の名前をちゃんと認知できたから、きょうは純度100%のわたしで。

 

うまれたまんま外に出よう。そうしよう。ありがとう。愛というのはきっとこのようにずっと余韻のように、わたしの辿ってきた道にずっと響いていたんだ、静かに。

 

忘れることもあるけど、思い出したら、また、音は大きくなる、鼓動を刻むように、そうして生きていけるんだ、愛している。わたしはわたしとあなたを抱きしめて飛び出す。

 

 

過去に暴力反対。ばいばい。